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九七式中戦車(チハ)は旧日本帝国陸軍の主力中戦車。「チハ車」とも呼ばれています。このチハ車ですが、1938年から1944年にかけて総計2,123輌も生産されましたが、保存・展示されている現存車両は多くありません。
本記事でご紹介する静岡県富士宮市の若獅子神社に奉納されているチハ車は、実物のチハ車を見ることのできる数少ない場所のひとつです。さらに、この若獅子神社には、旧日本帝国陸軍が試作した多砲塔戦車「オイ車」の大型履板も奉納されているとのことです。
本記事では、九七式中戦車(チハ車)やオイ車などの軍事関連の歴史的資料に関心のある方のために、これらを保存している若獅子神社および、ここに奉納された「九七式中戦車(チハ車)」と「オイ車」についてレビュー記事を紹介します。
若獅子神社について
静岡県富士宮市上井手にある若獅子神社は、先の大戦において若獅子の名のもとに勇戦奮闘悠久の大義に殉じた陸軍少年戦車兵の教官・生徒六百有余の御霊を御祭神として昭和59年10月に創建された神社です。
静岡県富士宮市上井手にあるの若獅子神社付近一帯には、戦時中の1942年から1945年まで、陸軍少年戦車兵学校がありました。14歳から19歳の陸軍少年戦車兵を2年間かけて育成するための学校だったのです。終戦後に廃校となりました。
1965年になり、この陸軍少年戦車兵学校の跡地の一角に戦没同窓生の慰霊・顕彰のため「若獅子の塔」を建立し、続いてその後1984年には、若獅子の塔の傍に、陸軍少年戦車兵の教官、生徒六百有余を祭神として祀る「若獅子神社」を創建するに至りました。
若獅子神社へのアクセス
若獅子神社への公共交通機関を利用したアクセスはあまりよくありません。可能なら自家用車やレンタカーなどを使って行くのがおすすめではありますが(わたし自身も新富士駅からレンタカーを借りました)、路線バスを使って行く方法もありますのでご紹介しておきます。
JR身延線の富士宮駅で下車します。駅前に富士急静岡バスのバス停がありますので「猪の頭行」のバスに乗車します。平日は1時間に2本程度、土日祝日は1時間に1本程度なので利用される場合には予め時刻表で確認しておきましょう。
バスの乗車時間は30分ほどです。「上井出出張所」というバス停で下車します(料金610円)。ここからは上の地図のように徒歩となります。片道約1.5kmほど、20分程度かかります。往復3kmですから、ちょっと大変かもしれません。
なお、この「猪の頭行」のバスですが、上井出出張所の先は、白糸の滝、まかいの牧場、田貫湖、朝霧高原のほうまで行きます。また、富士宮駅から徒歩圏内に世界遺産で有名な富士山本宮浅間大社などもありますので、時間があればこれらの観光地とあわせて若獅子神社を訪れるのがおすすめです。
若獅子神社を参拝
若獅子神社の付近に来ると、民家や建物はまばらで、田畑でもない野原のような場所が多いことに気がつきます。陸軍少年戦車兵学校の敷地は若獅子神社の場所を含めて、かなり広大な範囲に及んでいたはずですから、こういった場所も、かつては陸軍少年戦車兵学校の一部だったに違いありません。
対向2車線の道路を進むと、「若獅子神社/若獅子の塔」の文字が書かれた青い看板が出ているので、そこを右へ入って行くと若獅子神社の正面にある広い駐車場となります。さきほどの対向2車線の道路からは神社が全く見えないので、青い看板を見逃さないように注意してください。
神社の正面には真っ白い鳥居が一つ建っています。背景には富士山がそびえていて、なかなか絵になる場所です。
この鳥居をくぐると左手に手水舎があり、鳥居の正面約20m先には社殿が鎮座しています。奇麗な社殿ではありましたが、私が行ったときには扉が全て閉まっており、(防犯上の理由らしいが)賽銭箱も外に出ていない状態でした。残念ですが、お賽銭は捧げることができず、社殿の前でお祈りだけさせていただきました。
ちなみに、社殿に向かって右側には社務所があります。こちらも私が行ったときには閉まっていて誰も人が居ない状態でした。普段は、お守りや御朱印などを授かることができるのかどうか、残念ながら確認することはできませんでした(御朱印は無いようです)。
社殿に向かって左側には、大きな塔状のモニュメントがあります。「若獅子の塔」です。陸軍少年戦車兵学校の戦没同窓生を慰霊・顕彰するために建てられました。さきほどの鳥居の2倍以上の高さがありそうな高い塔です。
この塔のもとには一体の若獅子の石像が鎮座しています。狛犬タイプの獅子ではなく、ライオンっぽいですね。なかなか勇ましい姿です。
若獅子の塔の更に左側には、屋根の下に九七式中戦車(チハ車)が安置されています。若獅子神社での一番の見どころとなります。続いて、九七式中戦車(チハ車)のレビューを後述します。
若獅子神社に奉納された「九七式中戦車(チハ車)」レビュー
若獅子神社に奉納され、保存・展示されているチハ車は、機甲部隊の主力としてサイパンで戦った戦車第九連隊所属の車両で、1976年に発見されたものです。サイパン戦で戦死した40余名の少年戦車兵への追悼・慰霊の願いを込め、敢えて修復などせずに、そのまま状態で保存されているようです。
ちなみに、同じく戦車第九連隊所属で、同時期に帰還したもう1両のほうは、現在、靖国神社の遊就館で修復され展示されています。
まず一目見てその状態の凄まじさに息をのみました。以前、靖国神社の遊就館で修復されたチハ車を見たときの記憶と比べると、同一車両とは思えないほどの違いを感じました。
ぐるっと周囲を回ってみると、装甲板にある数多くの弾痕や、車体の前後左右に破損していない場所を見つけるのが難しいほどの損傷など、戦闘の凄まじさをリアルに感じることができました。また、赤錆びた車体からは、その年月の経過を感じることができました。
この車両がサイパンで発見されたとき、車内に遺骨が残っていたそうです。きっと、最後の最後まで戦い抜いて倒れた英霊なのでしょう。
この車両を敢えて修復せず、慰霊碑としてこのままの状態でお祀りすることが良く理解できました。最後にこのチハ車の前で手を合わせてお祈りしました。
若獅子神社に奉納された「オイ車」レビュー
まず、「オイ車」について簡単に説明します。1941年、日本陸軍が試作した多砲塔戦車「オイ車」は、その巨躯と革新的な設計から、戦車ファンのみならず、軍事史研究家からも大きな注目を集めています。正式名称は無く、陸軍側の呼称が「オイ車」、メーカー側の呼称が「ミト車」と呼ばれていました。
オイ車の開発は、1939年のノモンハン事件での教訓を踏まえ、ソ連の要塞地帯を突破することを目的として始まりました。重量150トンを超える巨体は、当時の戦車としては異次元の存在でした。車体中央に主砲塔、前部に副砲塔2基を配置する多砲塔式は、まさに陸上戦艦を思わせるデザインです。主砲には九六式十五糎榴弾砲、副砲には一式四十七粍戦車砲を装備予定で、当時の戦車としては破格の火力を誇りました。
実際に試作されたのは予定重量150トンの車輌でした。1943年(昭和18年)、兵装・砲塔を搭載しない車体が試走試験を行なったが、走行装置が大重量に耐えきれず破壊されました。そして、1944年(昭和19年)に解体され、オイ車の車両は現存していません。
ところが、若獅子神社のサイトを見ると、解体されたオイ車の部品の一部、大型履板(いわゆるキャタピラの一部)が奉納されているとのことです。
しかし、私が若獅子神社を訪ねたときには、オイ車の大型履板を目にすることはできませんでした。どうやら上の写真にある社務所の中に保管されているようです。
若獅子神社の社務所は普段は無人で閉鎖されており、1月1日の「歳旦祭」、8月15日の「みたま祭」、10月の「例祭」のときにだけ開いているとのことです。もしかしたら、これらの祭典にときに訪問すると、オイ車の大型履板を見ることができるかもしれませんね(確証はありません)。
まとめ:若獅子神社に奉納された「九七式中戦車(チハ車)」と「オイ車」レビュー
以上、本記事をまとめると次のとおりです。
- 静岡県富士宮市にある若獅子神社は、先の大戦で亡くなった陸軍少年戦車兵の教官・生徒六百有余の御霊をお祀りする神社
- 若獅子神社へのアクセスは車がおすすめだが、JR身延線の富士宮駅からバスで行くこともできる
- 戦車にちなんだ神社であることから、九七式中戦車「チハ車」や多砲塔戦車「オイ車」の大型履板などが奉納されている
- 九七式中戦車「チハ車」は境内で展示されているので、いつでも見ることができるが、多砲塔戦車「オイ車」の大型履板は社務所で保管され公開されていない
- 九七式中戦車「チハ車」を見ることで、戦闘の凄まじさをリアルに感じることができる